2/5

人生はどうにもならないことが多すぎる。例えば生まれた時点で家庭の経済状況は確定していて、当分の間(下手したら一生の)上流下流が決定する。上流階級に生まれたらどうなるんだと頭を働かせて考えてみたが、私立中学 => 私立高校 => 東大京大慶応大 => 一流企業 という、ステレオタイプのエリートコースのイメージがあり、人生が楽しそう、というか後ろめたい人生を送らないで良さそうで、非常に羨ましかった。

一回仕事でそういう上流階級が集まるパーティーに出席したことがあるのだが、高そうな服を着た秀麗眉目な女子大学生が「私は内科にいきたい」だなんだと言っていた。おそらく頭も良く、都内の医学部なのだろう。彼女らは自分のような奴の存在すら気づかず、「周りの環境に感謝」とかいう台詞を嘯きながら一生を過ごすのであろう。羨ましい。ちなみに自分は「今ここにテロリストがやってきて消毒すれば世界は少し良くなるのかな」とか思いながら、営業の仕事なのに会話もせず、ムシャコラ上流階級の料理を食べていた。料理はバイキングにもかかわらず結構美味しかった。

どうにもならないことといえば、過去のこともどうにもならない。自分の進路の後悔を遡って考えると「なんでこの研究室に修士で入ったんだ」「なんでこの研究室に学士で入ったんだ」「なんで薬剤師になれない課程に行ったんだ」「なんでこの学部に行ってしまったんだ」「なんで高専でなく普通科に入ったんだ」…とひたすら意味のないネガティブな思考を繰り返し、最終的には決まって「産まれてしまったのが間違い、今すぐ死んで転生するしかない」とどうしようもない結論になってしまう。最も、このあたりは自分の将来に対する思考の浅さや、人生に対する不真面目さが影響している気がするのだが。

しかし、「過去のことを後悔する」というのは「当たらない馬券を買ったことを後悔する」のと同じこと。必要以上に悔やんでも仕方がないのである。恐らくなのだけれども、過去のことを後悔しないで生きられる人は、きっと上流階級でも無理で、それこそ当たり馬券の未来を知っている非科学的な人しかできないだろう。ちっぽけな自分にできるのは、実際に痛い目をみた過去を教訓とすること、そしてこれからどうするかであり、過去をひたすら責めることでは無い。

だから、今日ムシャコラ食べたすた丼餃子つきも責める必要はなく、「もうすた丼は食べない、明日からダイエットする」と考えればよいのだ。(25分)